豊臣秀吉の最後の孫の生き方

豊臣秀吉の豊臣家が江戸時代初期に大阪の陣にて、その子孫が滅ぼされたのは周知のことだ。
秀吉の息子である秀頼には、息子と娘をおり息子の国松丸は京都六条河原で斬首に処せられたが、娘の目奈阿姫(なあひめ)は、出家することで命を助けられたような。
その後の生き方が興味深い。奈阿姫の出家先は鎌倉東慶寺、そう、あのさだまさしの歌にもでてくる縁切寺だ。出家して、天秀尼(てんしゅうに)と名を改めた。
天秀尼は、東慶寺で禅の修業を積むとともにその当時の、夫からの暴力などに苦しむ女性の救世にあたったそうな
江戸時代当時は、夫からの離縁は三行半(みくだりはん)と呼ばれる離縁状をたたきつければ成立した。
しかし、妻からは、夫からどんな理不尽なことをされても離縁は許されていなかったという。
そんな当時の女性の最後の砦が東慶寺であった。
当時の特例として、家庭不和などで家をでた女性も東慶寺で三年間修行を積めば、夫との離縁も許されたそうな。

天秀尼は東慶寺に入るにあたり、武威が社会の土台になっている武士社会、封建社会の中で女性や弱者を守る存在としての寺を維持していくことを自分の人生を注ぐことを決意したようだ。
その後東慶寺は、彼女の尽力により寺格を確立し、当時のDV救済寺としての地位を築いていく。

大名の殿様にさえ屈しなかったという逸話も残っている。
当時ある地方大名の殿様の横暴から逃げ出した家臣を妻女が東慶寺に駆け込み、その殿様からその妻女の引渡しを迫られた際に、身を挺して拒否したばかりか、寺法を侵害するそのお殿様を時の将軍家光に直訴したそうな。
そしてそのお殿様はその後改易の憂き目にあったそうな。

武家社会を武力で天下統一した秀頼の最後の末裔が江戸時代に尼となって弱者救済のために一生を捧げる生き方をしたという事実が歴史の片隅の残されていた。

注)(※秀天尼の義理の母は秀頼の妻千姫(※秀天尼の実母は秀頼側室の小石の方)、千姫は二代将軍秀忠の娘なので、秀天尼は、三代将軍家光にとって義理の姪ということになろうか)