最近少なくなったが、思い通りにならないことが 時々ある。
たとえば、今朝オフィスでバケツにお湯を入れて持ち込んだところ、机にぶつけてお湯をぶちまけてしまった。
あたりと私の洋服がびしょびしょになった。
また、昨日、あるところに訪問したところ、打ち合わせの準備ができていないため、30分ほど待たされたあげく結局用を足せず再訪問になってしまう。
また小さなことだが、ある切符を買おうと並んだところ、前の人が不慣れなため、操作を何べんも繰り返し、あげくのはてに機械が使用停止になってしまい、並びなおすはめになる。
そんなこんなで遅刻をしてしまう。
注意や努力はしているがそういうことはやっぱりある。
最近、思い通りにならないことは、なるべくこういう風に思うようにした。
自分の思い通りにならないことは、すべて神様が自分に学ぶ機会を与えてくれているではないかと。
神様が未熟な自分を成長させようとして、今の器に見合った宿題を与えてくれる。
そういうことではないかと。
辛抱が足りん、とか、思いやりが足りん、とか、注意力が足りんとか、
どんな宿題かはそのつど違う。
そして、その宿題の課題を意味をきちんと見つけ、実践すると、ときどきご褒美を頂戴できる。
そう考えると、思いどおりならないことに対する、いらいらや不満が少なくなる。
短気な私には都合のよい解釈である。
今朝は、バケツをひっくり返し、、あーまた神様が宿題をくれたと思った。
<本日の宿題>
"あんたは注意力が足りん、もっとひとつひとつの動作を注意しなさい"
ぶちまけたお湯を拭きながら、そういう宿題をもらったと思った今朝でした。